答えのない論争はどこにも落ち着かないで、ジョーカーになる

トロッコが迫ってきている。このままでは三人が轢かれてしまうが、レーンを変えれば一人で済む。

何もしないで三人を見殺しにするのと、レーンを変えて一人に手を下すのとどちらが良いか。という論争は度々見かけるだろう。

 

この問題には答えがない。どちらを選んでもいい。

この論争に意味はあるのか?個人的にはあると思う。両方の意見を聴き比べることで、お互いの意見を理解し合って多角的に物事を見ることができるからだと思っている。

 

問題は『自分の意見が正しいと信じて曲げない』人間がいる場合だ。更に詳しく言えば、彼らは何故意見を変えないか、にもよる。

 

意固地になって変えられない人もいれば、議論の内容に納得がいっていない場合もあるだろう。それは構わない、それも議論の意義の一つだと思う。問題は、自分の意見に『完全に』他人を引き込もうとする人間だ。甘言恐喝などは言語道断なのだが、完全に一致していないと『いいや、まだわかってない』などと言って一人で見えない敵と論争し続ける。

もう一つは議論をする気のない人間を引きずり出して、自分の傘下に加えようとするやつ。こちらは話す気がないから、何も言えないのだが相手方はなぜだか熱く語りだす。それを冷めた目で見ていると時折不快な気分にすらなる。

 

私は、答えのない議論に答えを求めるのが嫌いだ。詩の読解や道徳のテストに近い。自分と向き合って出した結果と、他人の結果を照らし合わせて、『なるほど、こういう考えもあるのか』で終わらせてくれない。終わらせたい議論に無理矢理引きずり出されて戦わされる。結局お互い感情的になって、本題とは関係ないところで有耶無耶になって終わりがちだ。

 

ただ、好きな議論もある。相手を怒らせるための議論だ。バットマンジョーカーなんかも、そういうのは好きそうだ。バットマンを怒らせるため、苦しめるために何かする。あのくらいの大人物でになれれば、ぼくも救われるのだろうか。